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『ニモーナ』(2023)ー交差性、あるいは私たちの困難な連帯についての物語

『ニモーナ』(2023)

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youtu.be

 

傑作!

今、この時代、この時、この瞬間だからこそ作られるべき、そして作られたクィアな寓話。

 

【※ちょっと文章が長いのと、自死に関する文章が少しだけあるよ。あとラストの展開についてかなり厳しい気持ちで見ているレビューなので、気分悪くなりそうな人は気をつけてください】

 

 

キャラクターを語らなければ始まらない!


バリスタ

両手を広げて困った顔をしているバリスター

あえて言うならヒロインはこの人

バリスターのキャラクターデザインの妙は、なんといっても外見と中身のギャップだ。

バリスターは孤児で有色人種でゲイという、作中世界においてもマイノリティ*1だけど、私たちの現実世界においてもマイノリティとされる属性を多く持つキャラクターである。

性格においても「男性」というカギカッコの範囲内においては珍しいとされる「繊細で」「少し気弱で」「喜怒哀楽の感情を隠すことなく表に出し」「暴力を嫌う」性質を与えられている。あらゆる方面でマイノリティな要素を持つキャラクターとして設定されてるね。うーん、盛り上がってきた!

実際、彼は*2とってもロマンチストで、自分の右腕を切り落としたパートナーを信じてやまないところがあるし、突然現れた不思議なニモーナという存在に対しても暴力で対抗しようとしない、それどころか、積極的にニモーナの心理的ケアをしてみせる(最大の“ケア”がクライマックスのそれだったよね!)。
「騎士」という純血主義でマッチョイズムに満ち満ちていそうな職業からは想像できないくらい、シンプルに言えば実に「優しい」男性キャラクターだ。

そんなキャラクターのビジュアルを再度見てみよう。

微笑むバリスター

髭!髭!髭!生えかけの髭!
目の下に傷!眉毛にも傷!
筋肉も、まぁまぁある!

そう、バリスターのキャラクターデザインはかなり「男らしい」造型をしている。

私たちの社会が構築した「男らしい」とされる要素を内面にほぼ持ち合わせていないにも関わらず、その外見はとっても「男らしい」要素に満ちているのだ。
この外見でこの内面をやるからこそ、きっちりとアンチホモソーシャル、アンチマッチョイズムの文脈を語ることが出来る。「男らしい」記号に満ちたこのキャラクターが、クライマックスにおいてニモーナの心のケアをしてみせるからこそ、その行為に意味がある。

 

 

ニモーナ

両手を広げてニヤリと笑うニモーナ

文句なしのキャラクターデザイン。

ピンクに近い色の赤毛にベリーベリーショートヘア、ヘッドホンが似合う耳にはバキバキにピアス。ギザギザの歯もこの上なくキュートで、ストリートファッションがよく似合う。

いわゆるコミュニティにおける「はぐれもの」のアイコンを多く備えたデザインで、それはそのままこの物語におけるニモーナの役割を示している。*3

 

Metal~なニモーナとポカンとするバリスター

せーの、metal~🤘

ニモーナのキャラクター造型で面白いのは、ニモーナは意図的に「女の子」でも「男の子」でもない存在として描かれている点だ。
これは私がこの映画をクィアの寓話だと主張するポイントのひとつでもある。

おそらくニモーナというキャラクターの表象の意図としては「ノンバイナリー」ないしは「トランスジェンダー」、もしくは「ジェンダーフルイド」、もっと大きな括りで言えば「クエスチョニング」というものが確実にあると思う。

具体例を挙げよう。

 

列車内。ゴリラ姿のニモーナと、バリスターは対峙する

そんな話よりピザが食べたい!

「列車でバリスターとニモーナが移動しているシーン」がわかりやすいかな。2人の会話を思い出して欲しい。

 

バリスター: Can you please just be a normal for a second?(なぁ、普通でいてくれないか?一瞬だけ)

ニモーナ:Normal?(普通って?)

バリスター:I just think it'd easier if you were a girl.(ああ、だってほら、女の子の方が楽じゃない?)
ニモーナ:Easier to be a girl? You're hilarious. (女の子でいるほうが楽?笑える)

バリスター:I mean, easier if you look human.(人間に見えた方が楽ってこと)
ニモーナ:Easier for who?(それ,誰にとっての“楽”よ?)

バリスター:For you. A lot of peaople aren't as accepting as me.(お前だよ。みんなが俺みたいに寛容じゃない)
ニモーナ:Mn-hmm?

バリスター:How did you get like this?(どうしてそうなったんだ?)
ニモーナ:What? You mean awesome?(かっこよくってこと?)
バリスター:No,how do you--I'm just trying to understand what I'm working is here.(違う、なんで…一緒にいるなら知りたいんだよ)
ニモーナ:I'm Nemona.(だから、うちはニモーナ)
バリスター:That explains literally nothing.(それなんにも、説明してない)
ニモーナ:No, you're right. You deserve a better explanation than that.(はぁ…そうだね。ボスには知る権利がある)

 

 

このあと、ニモーナはバリスターに自分の過去を話す…と見せかけて茶化して終わるので、「目の前の相手が何なのか」そして「相手がそうなった過去について」を「知る権利」なんてものは誰にもない、という結論になる*4
これは全くその通りで、「私がなんであるか」を常に周囲に証明しなくてはならない(しかも相手が納得できるだけの説得力を持って!)義務など誰にもない。マイクロアグレッションに対する鮮やかなアンサーである。

上述した一連の会話は珍しくフィクションにおいて他者の身体をあれこれ聞くことの無礼さーーいわゆる「マイクロアグレッション」を描き切ってみせた素晴らしいものでもあるのと同時に、ニモーナがずっと他者に対して「して欲しかったこと」をバリスターに伝えている大事なシーンでもある。

つまりニモーナの言いたいことはこういうことだ。

 

【自分を外見から推察できる何かにジャンル分けするのではなく、もしくはわかりやすいジャンルにいるようにとニモーナに要請するのではなく、「私はニモーナ」以上の証明を求めないで欲しいということ】

 

である。

ニモーナを中心にして、色々な生物の姿になったニモーナが描かれている

奇跡のかたまりのような子ども!

「女の子」に見える格好でいたときに、それは誰にとって楽なのか?それは当然バリスターにとって、楽なのである。ニモーナにとって、ではない。

「普通normal」でいてくれという要請の中には、「自分が楽だし安心するから」というバリスターの怖れが隠れている。*5

実際、後の場面においてニモーナは「正直、変身しないほうが身体がムズムズする」と言い、変身するのを我慢したらと提案するバリスターには「死ぬ」と言い、冗談めかしつつも「生きてる感じがしないってこと」と言い換える。

 

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ニモーナにとって姿が一瞬ごとに違うものへどんどん変容していくことは自分自身にとって「生きている感じのする」在り方であり、その在り方が周囲に受容されず排斥されることがニモーナの傷つきを生んでいる。

過去の体験においても、ニモーナは最初、クマの姿をしていたために人間たちから攻撃を受け、グロレスから引き離されてしまうが、すぐに人間の女の子に変身してみせる。しかし、人間たちの攻撃の手は止むことがなかった。

つまり恐れられているのは変身したあとの姿ではなく、その「変容する」在り方そのものである。

 

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この構造はそのまま、現代社会において自己のありのままの在り方、その身体表現を周囲に受容されず排斥され続けているトランスジェンダーやクエスチョニングの人々が置かれている状況に当てはまる。
最終的に傷つき果てたニモーナが、街を攻撃するのではなく、自分を殺すーーー自死に向かうところも含めて(性的マイノリティのほとんどが10代から自殺願望を抱くというデータも出ている)、実に現実をよく映している物語だと思う。

 

本当に良いキャラクターだ。

クィアネスを持つ子どもたちにとって、これ以上なく共感できるヒーローだろう。

 

 

 

交差性、あるいは私たちの困難な連帯についての物語

 

窓を背景に並び立つバリスターとニモーナ

私たちは一見、同じ立ち位置にいるように見える

この物語は、【コミュニティから排斥されたものたちの、困難な連帯について】語るものであると私は受け止めた。
同時に、インターセクショナリティ(交差性)*6について真っ向から描いてみせた作品でもあると思う。

 

前述したようにバリスターは孤児で有色人種でゲイ、かつ見た目に反して心優しく喜怒哀楽の激しい男性なのでニモーナと同じくらいマイノリティな要素を多く持つキャラクターであり、ヤバイ校長に抗うぞ!という目的も一致している2人は一見うまくやれるように見えるけれども、ほとんどうまくいかない。

ニモーナは騒ぐのが大好きだしすぐ暴力に走るが、バリスターは静かにしたがるし暴力に走りたがらない。他者とのコミュニケーション方法として選ぶ手段がてんで違うのは明らかだ。
バリスターは自分の右手を叩き切ったパートナーを諦め切れないが、ニモーナはそれを洗脳だと言い切るし…パートナーに対するスタンス(ニモーナが他者とロマンティックな関係を結ぶかわからないから仮定の話だけど)も違いそうだ。

なによりバリスターはニモーナの変身というアイデンティティを最初認められなかった。だから無遠慮に身体のことについてあれこれと聞いたり、人間の姿でいるようにとニモーナに要請したのである。

ギザギザの歯を見せるニモーナと、優しく微笑むバリスター

正反対な2人はバディ物の王道だが…

しかしそれも当然の話で、2人は確実にマイノリティの一面があるが、一律で捉えられるものではなく、さまざまな要素を持っているからこそ、ある面ではマジョリティになり、ある面ではマイノリティになる。

たとえばバリスターはゲイだが、あの世界ではどうやらゲイの存在はとくに差別されているものでもないらしい(それを取り上げて揶揄されるシーンなどがないため)ので、その面ではバリスターは集団に埋没できる存在である。また、なによりバリスターは「変身能力がなく」なおかつ「変身する必要がない」と感じて生きているため、その面においてはニモーナよりも、マジョリティ側に近づくのである。

これはかなり現実に近い。
単純に言ってしまえばゲイはきょうび珍しくない(既に社会に受け入れられ始めている)が、トランスジェンダー(ないしクエスチョニング)は珍しい、つまり、まだ全然社会に受け入れられていない、という話でもある。

 

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だから、“コミュニティから排斥されたマイノリティ”たる2人の間にすら、まだ、勾配があるのだ。
姿を変えなくては生きた心地のしないニモーナと、姿を変えなくても生きていけるバリスターでは、どちらの方があの壁の中の街で「生きやすい」のかは明らかだろう。

しかしバリスターは己のそうしたある種の特権性ーー「姿を変えなくても生きていける」状態であることによって知らず知らずのうちにもっている特権に、イノセントなまでに無自覚である。
だからバリスターは自身にもある特権性に無自覚なまま、怖れと無知のままにニモーナの身体についてあれこれと侵襲的に詮索するし、迷った末に大衆側についてニモーナを排斥しようとしてしまう。

 

バリスターはマイノリティだ。
しかし、ニモーナと並び立ったとき、彼はマジョリティになる。

牢屋の中にいるバリスターとニモーナ

私たちは同じ場所にいるように見えて、違う景色を見ている

この物語はここを描こうと試みた点において、無限に評価を得て欲しいところである。

 

 

 

 

もう一歩踏み込んで欲しかったラスト

 

We love Nemona と書かれた紙 似顔絵が描かれている

死んでからなら何とでも言える

大好きな作品なので全面的に褒めてあげたいところなのだが、ニモーナが自己犠牲によって街を救う終わり方はあまり賞賛できないものがある。

マイノリティが自らの命をもって集団に対する自己の有用性を示したから、集団に受け入れられることができました、というあのオチは、最後の最後でエンタメとしての心地よさを優先してしまった終わり方だったと思う。
有用性のあるマイノリティなら生きていてオッケーというのも乱暴な話だ。

流石に製作陣に理性が残っていたのが幸いして、ニモーナを殺して終わることはなかったが(死んで終わっていたら最悪の映画になるところだった)、しかしまぁ、かなりギリギリだった。

 

 

争いを終わらせるのは暴力か?

 

また、このお話の肝の部分として「語り継がれてしまった偽りの物語」による「間違った教育」があったと思うのだけれど、それを塗り替えるために「力」で「力」に対抗して終わるというのも、もう少しズラした終わり方にはできなかったのかな、と感じてしまう。

 

金髪の女性に見える騎士に貫かれるドラゴンの絵

これは偽りであると、私たちは既に知っている

ニモーナの敵として描かれている校長だけれど、あの人も言うなれば、民衆が作り上げた「自分たちにとって都合がいい」偽りの物語による間違った教育の被害者であるわけで…。


ニモーナとバリスターの関係を繊細に描いていく中で、「相手をよく知ること」で「相手がなんなのかわからない恐怖」はやわらぐよと、だからたくさん話をしよう*7、と示してくれていた本作におけるラストが、「間違った教育」の被害者とも言える相手を「力」でねじ伏せるものであってよかったのだろうか?という疑問はやはり、残り続ける。

 

モンスターの姿になったニモーナを遠くから眺める校長先生の後ろ姿

「社会構造が作り上げた怪物」という点において、彼女とニモーナに、はたして違いはあるのだろうか?

あの校長と、ニモーナが落ち着いて対話することのできる環境がもしあれば…たとえば、どうだっただろうか?と想像せずにはいられない。

ニモーナという「他者」が、常に変容し続けている、その在り方を校長が受容できたのならーーーもしかすると、校長自身もまた今現在の自分から変容するという生き方を、肯定できたのかもしれないと、思えてならないのである。

 

一緒に想像してみてはくれないだろうか。

ラスト、ニモーナは自身が邪悪なモンスターとしてグロレスに退治された時の絵画(OPでも映されるアレだ)をバックに、その構図を塗り替えんとばかりに、グロレスと同じ立ち位置にいる校長へ立ち向かっていくが、本当にそれでよかったのだろうか。

あの絵画の元ネタたるニモーナとグロレスはもともと親しい仲であり*8、2人は戦うのではなく、一緒に過ごしていたかったのではなかったか?

本来であれば戦う必要のなかった2人を戦わせたのは誰か?それは周囲の無知な大人たちであり、大衆である。

その構図は、ニモーナとグロレスだけではなく、ニモーナと校長の間にもあるものではないのだろうか?

 

幼い頃のニモーナとグロレス

グロレスに「ニモーナがモンスターだ」と「教えた」のは周囲の大人だった。


それならば、かつてのグロレスと同じ立ち位置にいる校長とニモーナの関係の結末として製作陣が描くべきだったのは、暴力に対して暴力で迎え打つことではなく、互いに互いを他者として認識しながらも、共存する絵だったのではないだろうか?

これはけして差別されたマイノリティに対し、差別主義者に寛容たれと言いたいのではない。そんなくだらないことを私は言わない。

環境と社会構造によって生み出された2人の対立を、「あくまで2人個人の戦い」として、相打ちで終わらせることはあまりにも前時代的だと言いたいのだ。それは勧善懲悪の神話の再生産に他ならず、このような作品のエンディングとしてはあまりにも“もったいない”と感じるのである。

校長が償うべきは償うべき罪として存在するが、だからといって、殺していいのか?と尋ねたいのだ。差別主義者を殺したいならあの国のすべてを滅ぼせばいい話だが、ニモーナはそうしなかった。そうしなかったのだ。私は鑑賞中、あの作品において裁かれるべきは大衆であると確信し、憎しみの炎を燃やしたが、鑑賞後の今はそれが間違いであると理解している。

 

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つまり言いたいことはこういうことだーー私たちはそろそろ、「裁かれるべきと盲信していた敵がどこにもおらず、誰をブチ殺してもこの最悪な状態のツケを支払わせることができない」という現実を受け入れる必要がある。

たった1人の権力ある差別主義者を殺すのも、差別主義者だらけの国を滅ぼすのも、同じ話だ。個々人の生命を奪うことと、誤った環境や構造を変革することを混同している。世界を変えることは、人を殺すことと同義ではないはずだ。あなたは世界をより良い方向に向かわせるために、ひとまず身近な差別主義者を殺すのか?そうではないと言ってくれ。

 

エンディングにおいて、バリスターとニモーナの指名手配写真だったものは、「英雄」として壁に飾り付けられている。

私はこれを見て、心の奥底からがっかりした。これではただ単純に、権威が交代しただけだ。大衆は相変わらず自身の責任を見つめず、この国が作り上げてしまった構造を見直さず、校長の代わりの新たな規律であり、「英雄」であり、死の淵から蘇った「救世主」たるニモーナを信奉するだろう。

それではこの国は、世界は変わったと言えるのだろうか?

 

校長のその後は描かれない。どのみち、あの爆発の中で生き残るのは難しいだろう。生きているのであればエンディングで姿を見ることができたはずなので、おそらくは死んでいると予想できる。それでは結局、たった1人の差別主義者がすべての悪事を企てたように、私たちに錯覚させてしまう。本当はそんなことはないのに。

 

1人の人間が他害に走る時、そこには必ずその人を取り巻く周囲の環境がある。モンスターは生まれた時からモンスターなのではない。環境がモンスターを作り上げるのだ。もっと言えば、人が人をモンスターに仕立て上げる。そのことは十分、暴走するニモーナを見てきた私たちには、理解できる事象ではなかったか。

 

手を広げて歩くグロレスと肩を縮めて歩くニモーナ

あるいは校長も、ニモーナと一緒に歩いていくことができたのかもしれないのだ

もしかしたらこの消化不良なエンディングは、製作陣から投げかけられた疑問であり、観客へのプレゼントなのかもしれない。

「本当にこれでよかったと思えますか?」という。

映画から現実へ持ち帰るお土産のような問いでもあるのかもしれない。

 

私はあの結末を、全くよかったと思わない。

私は、ちゃんと法によって裁かれた元校長先生が入れられている牢屋に様子を見に行って、ちょっかいを出すニモーナが見たかったと思う。

ニモーナは校長を一生許さないかもしれないし、もしかしたら遠い未来で許す時が来るのかもしれないけれど、どちらにせよ、選択肢というものは、相手が生きているから生まれるものだ。

私は選択肢が生まれるところを見たかった。

ただそれだけだ。

 

結局そうならなかったから、これはもう特に意味をなさない希望だが、ただ、この物語においては、誰も死んでほしくなかったと思うのだ。

だから少しだけ、そうならなかったのが、さみしいなぁと思ったりしている。

 

 

 

おわりに

くじらになったニモーナの背中にバリスターが乗っかっている

まぁ、結局のところは傑作だ


色々言ったけど結局総評としては最高!であり、全体を見ればまずまず…というかかなり素晴らしい出来だったので、ラストは薄目で見送ろう。

 

性的マイノリティへの風当たりが強い昨今の中で、マイノリティ同士の間にもある連帯の難しさと勾配について描こうと試みただけでも十分意義ある試みだったと思うからだ。

『ウルフウォーカー』と並んで、久しぶりにいいアニメ映画を観させてもらった。
原作コミックスも読もうと思います。

 

(2023.07.04 加筆)

 

 

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*1:とはいえゲイはあの世界では既に揶揄う対象ではないっぽい。意地悪な同期もそれには触れないので。しかしそれもしっかり話の仕組みに後々効いてくる

*2:彼がシスであると仮定して、“彼”を使うね。性別についてのクエスチョンが映画内で示されたのはニモーナだけなので

*3:赤毛のモンスターといえば、真っ先に思い浮かぶのはアリエルなのだが(あいつも普通に人外なので)、人間のコミュニティに馴染めないのに憧れ続けているキャラクターとしてはニモーナと共通点が多い。とはいえアリエルはマジョリティに迎合する形で自身の姿を変容させて人間のコミュニティに受け入れられていくのに対し、ニモーナはありのままで受け入れられていく。これは作られた時代の差だろう。私たちがゆっくりだが確実に前に進めていることの証左かな

*4:だから最後までバリスターはニモーナが「なぜ“そう”なのか」も「どんな過去があったのか」も【知らない】のだが、あのクライマックスの行動へ辿り着くのが、この映画のすごいところだ

*5:“normal”でいてくれーーこれをゲイのキャラクターが言うところが本作のミソである、素晴らしい

*6:以下参考記事→

ja.wikipedia.org

*7:もっとも、たくさん話をする、の話の中には「身体について詮索したり」「話したくない過去を掘ったり」することは含まれない。その二つがなくても、友達になれたでしょ?

*8:この2人がただの友人同士だとは少し思えないところがある。どうもレズビアンの表象として描いている節があるように映像から見受けられるからだ